2014年1月23日星期四

满清国復興意半で長逝、肅親王一周年祭


肅親王が昨年不幸病を得て遂に長逝したことは何人も知るところである。四月十七日はその一周年に当るので此の不遇の偉人の生前を偲ぶべく、東京本郷麒祥院で盛大な一年祭が執行された。写真は肅親王と共鳴し義兄弟となった当年の志士川島浪速氏の養女となった王の娘芳子さんの焼香。(「写真通信」大正12年6月号)

日本の軍部は、中国に繰り返し「謀略」を仕掛けて、昭和六(一九三一)年には満州事変を起こした。国際的な非難のなかで清朝の廃帝溥儀をかついで「満州国」を創り、孤立化から戦争への道を進んで、敗戦にいたる。



さて、この写真は、大正十二(一九二三)年四月十七日、焼香しているのは川島芳子、清朝の筆頭王族だった肅親王家の娘である(『写真通信』大正十二年六月号)。

この日、実父の一周忌が東京本郷の麟祥院で営まれた。芳子は、日本人の川島浪速の養女となって、日本で暮らしていた。

川島浪速は肅親王と義兄弟の契りを結んだ「大陸浪人」だった。明治から昭和初期にかけて、日本の中国侵略を側面から画策。浪速は、二度の満蒙独立を謀って失敗する。

芳子は、一九〇七(明治四十)年に、北京の紫禁城内で生まれた。清朝王族の姫として育つが、五歳のときに孫文の辛亥革命で清国は崩壊し、旅順に移り住んだ。

八歳で来日するとき「東珍」と名付けられ、日本名を「川島芳子」とされた。独りぼっちで言葉も文化も違う日本にやってきた芳子は、激変する境遇のなかで、幼い胸中に「清朝復活の夢」を抱いて育つ。この写真から一年半後、芳子のインタビュー記事がある。
「清朝復興の機会があれば私はお父さん(川島浪速)から三千人くらいの軍隊を世話してもらって大いに戦ってみたい・・実は私ね、いよいよ宣統幼帝が即位されたら皇后陛下になろうと思ったのよ」そう語って顔をあからめた芳子だが、続けて「だけど今日ではそんな野心はなくなりました。復辟(ふくえき=復位)が成功したらお父さんと二人で信州の黒姫山に籠ってしまうつもりです」(『東京日日新聞』大正十三年十月二日付け)

このとき十七歳の芳子は、おさげに赤いリボンをつけ花刺繍の黒い洋装だったという。

混乱が続く中国情勢のなかで、芳子の存在は報道関係者に注目されていた。しかし、この直後だろう、芳子は「女であること」と決別すると宣言して断髪にした。自殺未遂を図ったという。その理由には、いくつかの説があるが、わからない。芳子を絶望させるほどの壮絶な出来事があったと推測するばかりだ。

この写真を見るかぎり、芳子は「清朝王族」ではなく「日本の令嬢」である。その姿から、のち「満州国」に対して「五族協和」と言いながら「日本化」を押し付けようとした大日本帝国の覇権思想が感じられる。

外見は日本式に従いながら「清朝末裔の誇り」を持ち続けた芳子なのに、軍部はその出自と美貌を利用して「謀略」の渦中に投げ込んだ。 「男装の麗人」、有名な女スパイに模して「東洋のマタハリ」等と呼ばれた芳子は、日本の敗戦時に北京で国民党政府によって、日本軍の協力者として銃殺された。

「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん」と獄中にメモが残っていた。

芳子の処刑には替え玉説が中国で流布され、長く生存していたという追跡もあるが、否定的な意見が多い。






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