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2010年10月18日星期一

家あれど帰り得ず


■日本へ 

川島芳子(1907~1948)という名前は川島家の養女となった時つけられたもので、生まれた時は愛新覚羅顕シといいました。父親は粛親王(しゅくしんおう)。粛親王は愛新覚羅家の祖先ホンタイジの長男の子孫で、清王朝では筆頭の名家でした。 

(注)顕シは王編に子と書きますが、フォントがありません。また、芳子は一時、漢民族風に金璧輝と名乗っていたことがあります。 

粛親王(1866~1922)は本名を愛親覚羅善耆といい、32歳で父の9代粛親王の後を継ぎ10代目粛親王を名乗りました。粛親王家の当主は代々粛親王を名乗ったのです。彼は王妃(正妻)の他に4人の側妃(側室)がいて、21人の王子と17人の王女をもうけました。芳子はその第4側妃の長女で、順に数えれば第14王女にあたります。 

粛親王は、他の愛親覚羅家の王族がそうであったように京劇が好きで、時には5000坪(!)の自宅の庭に舞台を作って、京劇の一座を呼び寄せて公演させたようです。粛親王家を訪れた俳優の一人に有名な梅蘭芳がいました。1950年代中ごろ梅蘭芳が来日した時、すでに日本に帰化していた粛親王の子、憲立が楽屋に会いに行くと、梅蘭芳は直立不動の姿勢になって 『若様!』 と挨拶したそうです。 

粛親王の清朝での役職は、現在でいうところの税務署長、土木?警察署長でした。そのころ警察官の養成学校で若手の指導をしていたのが、後に芳子の養父となる川島浪速です。2人は上司?部下のような関係でした。 

1912年、辛亥革命によって清王朝が滅亡すると、粛親王は北京を脱出して旅順に住むようになります。当然ながら愛親覚羅の一族として、溥儀と同じように清王朝の再興を夢見るようになるのです。 




川島浪速(1865~1949)は慶応元年、信州松本藩士の子として生まれました。生まれた時、父親は長州征伐で大阪にいたため、大阪にちなんで浪速と命名されたのです。 

浪速は東京の東京師範付属小学校を卒業。同級生には後の幸田露伴がいました。
少年から青年に成長するにしたがって浪速は、アジアは白人に圧迫されている。これを解決するには支那の滅亡を未然に防がねばならないと考え、成人した後は中国に関係する職に就くことを望み外国語学校支那語科に入学するのです。ここでは後の二葉亭四迷と知り合っています。 

ところが浪速は学校を中退してしまい、中国大陸に渡り、各地を放浪後、満州に入ります。
彼は早くから、蒙古と満州こそは中国?朝鮮、ひいては日本の生命線であると考え、ロシアの侵略を防ぐためには、この地に独立国を作らなければならないと考えるようになるのです。
浪速はこの時24歳。
後年日露戦争があったことと、この地に満州国が建国されたことを思えば、明治時代初期にすでにその構想を持っていた浪速とは、道義的な善悪は別として、なかなかの先見性の持主といわねばなりません。なお、日清戦争(1894年)では、浪速は日本軍に通訳として雇われています。 

1900年、義和団の事件が起こると、彼等が占領する紫禁城に単身のりこんだ浪速は、どういう具合に説得したのか話をまとめ、紫禁城の無血開城に成功しています。このことによって浪速の知名度は高まり、日本軍と清王朝の両方から信頼されるようになるのです。 

さて浪速の構想は蒙古と満州を独立させることでしたが、これは同時に清王朝滅亡後の粛親王の夢でもありました(満蒙独立国構想)。しかし現実には様々な屈折があって満州も蒙古も独立できず、失意の浪速はやむなく日本に帰国することになるのです。
その後養女として来日した芳子を養育しながら、浪速は自分や粛親王が果たせなかった 『夢』 をあれこれ彼女に話したことでしょう。

芳子は芳子で、自分に流れる愛親覚羅の血と、浪速の話から満蒙を独立させ、清王朝を再興するのは愛親覚羅家の者としての責務、とごく自然に考えるようになったことでしょう。後年関東軍によって満州国が建国される時、芳子はためらわずに関東軍に協力し、その手先のような仕事をしましたが、それにはこのような背景があったと考えます。

粛親王と川島の満蒙独立構想は満州国の建国として具現化されました。しかし建国の喜びもつかの間、その実態を知るや芳子は、自分や父達が描いていた夢とは似ても似つかぬ現実を目の当たりにせざるを得なくなるのです。


だいぶ話が先走りました。
粛親王は川島浪速に、顕シを養女にするにあたって、『君に玩具を進呈する』 といったそうです。娘を養女にするのはいいけれど、 『玩具を進呈する』 というなど普通の神経の持主とは思えませんがどうなんでしょう?
後に浪速は芳子だけではなく、粛親王の長男の二女も養女としてもらい廉子と名乗らせています。

なぜ粛親王が、浪速の養女に顕シを選んだのかわかりません。
ただ後年、芳子の兄の憲立は芳子の同母兄ですが、彼が日本人女性と結婚した時、粛親王家の使用人達は、やはり血は争えない、と噂したといいます。血というのは芳子と憲立の母親は日本人か、あるいは日本人の血を引いているという説もあるのです。

 子供がいない浪速夫妻は、よろこんで顕シを養女にして芳子と名付けました。しかし実際はどうも男として育てたかったらしく、最初の名前は良雄といったようです。東京の豊島師範付属小学校、跡見高女に進学し、その後長野県の松本高等女学校に転校しています。小学校時代の1年後輩に作家の田中澄江がいます。 
このころ教育実習生としてやってきた大学生を、普通なら一応先生と呼ぶのに 『おい、君』 と呼んだそうです。このあたり、身に染み付いた王女の血なのでしょうか(笑)

浪速の出身地とはいえ東京から長野に転校したのは、中国大陸での満蒙独立の夢が破れた川島が帰国した後はヌケガラのようになって、東京にはいられなくなったためでした。松本高等女学校は転校?編入学ではなく、聴講生として入りました。 



青春時代の芳子 

それと、このエピソードは東京にいたころのものと思いますが、浪速の秘書をしていた小林修は夫婦で浪速の広大な家に住んでいましたが、ある日小林の妻の八重が芳子に 『あなたのお国は中国かしら?、日本かしら?』 と尋ねたら、芳子はちょっと考えてから 

お母さんのお腹の中! 

と答えたそうです。
なかなかの名回答ですね。芳子の頭の回転の速さが伺えます。 

松本高女へは騎馬で通ったり、授業を勝手に休むなど、しばしば校則を無視し、血筋が血筋ですからいやでも目立つ存在でした。それでも一人でいる時は、教室の窓辺で外を見ながら寂しそうに中国の歌を歌ったりしていたようです。
1922年2月、粛親王危篤の報せを受けると休学し、浪速と共に中国へ渡ったものの間に合わず、半年後に帰国。校長は土屋文明(後のアララギ派歌人)に代わっていました。土屋は芳子の復学は、校内の秩序を乱す、という理由からこれを認めず、芳子はそのまま退学ということになりました。 

芳子は17歳の秋に断髪しています。 『女を清算し、男として生きる』 ことを決心したといいますが、一説によれば浪速が肉体関係を迫ったためともいわれています。義理とはいえ親子は親子。これが本当だとしたら鬼畜だな、こいつは。 

1927年、芳子は蒙古の将軍、バプチャップの二男カンジュルジャップと結婚します。結婚式は旅順のヤマトホテルで、仲人は関東軍参謀長の斎藤恒でした。
しかしこの結婚はわずか3年で終わりました。芳子は家庭の主婦に収まるにはあまりにも自由奔放だったのです。それと芳子は兄嫁との折り合いが悪く、いさかいが絶えなかったともいわれています。 

カンジュルジャップは、突然何もいわずに家を出てしまった芳子の帰りを待ち続けたようですが、数年後あきらめて再婚し何人かの子供が生まれています。
この辺が芳子の面白いところで、彼女は自分は正妻で再婚相手は側室だと思っていたフシがありました。カンジュルジャップの再婚を祝福し、結婚式にはちゃんと出席していますし、子供が生まれたと聞けばお祝いを届けたりしています。 

離婚後、芳子はあちこちのダンスホールで遊びまわりました。そして1930年10月、関東軍中佐の田中隆吉が上海の公使館付武官として赴任しすると、芳子は田中と知り合い、ほどなく男女の関係になっています。そして田中を通じて板垣征四郎の指揮下に入り、謀略工作や諜報活動を学ぶようになるのです。 




■満州建国 

1931年、天津の日本租界にいた溥儀は関東軍に迎えられ、満州へ行きます。天津に残った皇后の婉容も脱出させなければなりません。この任務を命ぜられたが芳子で、彼女がどんな方法で婉容を脱出させたかは不明ですが、後に彼女をモデルにした小説 『男装の麗人』 では、婉容は自動車のトランクに身を潜めて脱出したと書かれています。 

続いて1932年1月、第1次上海事変が起こると関東軍は、世界の目が上海に向けられている隙に満州を独立させようと画策します。
第1次上海事変のキッカケは、1932年1月28日、布教中の日蓮宗僧侶が中国人暴徒に襲われ、1人が死亡、2人が重傷を負ったことからはじまり、報復措置として在留邦人が抗日運動の拠点だった三友実業社というタオル工場に放火し、かけつけた中国人警官と乱闘となり、警官2人を殺害。日本人側も1人が射殺されました。その後日中両軍は大規模な戦闘状態に入るのです。 

上海事変は関東軍の謀略で、その真相は戦後になって田中隆吉が自ら公表しました。前記した日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中隆吉で、芳子は 『女優』 としてその脚本を見事に演じました。彼女は関東軍から渡された軍資金2万円を使って反日中国人を扇動し、僧侶を襲わせたのです。 

その後芳子は呉淞にある砲台の大砲の数を調べたり、孫文の長男孫科とダンスホールで接触し、蒋介石の動きを聞き出して田中に流したりしていたのです。その後孫科は蒋介石から情報の漏洩を追求され、芳子の手引きで広東に逃げています。 

田中隆吉とはよほど要領のいい男だったのか、あるいは 『罪状』 をあらいざらい証言することと引きかえに、罪を逃れようとしたのか。ともかく戦犯としての起訴を免れたばかりか、検事側証人にさえなりました。東京裁判が終わり、安全になってから、はじめて彼はこれを公表したのです。 

 芳子がスパイとして活動した期間は意外と短く、1931年から2年間ほどでした。彼女のスパイ活動を支えたのは関東軍からの軍資金以外では明晰な頭脳、抜群の語学力、知的な雰囲気であり、清王朝の王女であるという地位などだったでしょう。 
一部では、芳子は関東軍に利用されつくしたあげく見捨てられた、という意見がありますが、これは一面は正しく、また別の面では間違いです。少なくとも満州国建国あたりまでは関東軍と芳子の利害は一致していて、関東軍はもちろん芳子を利用したし、芳子は芳子で清王朝再興のため関東軍を利用していたのです。とはいえ関東軍と芳子では悪い意味で、やはり役者が違ったのです。 


関東軍の計画どおり1932年3月には満州国が建国され、溥儀は摂政に就任し、川島浪速と芳子の夢は実現したかに見えました。しかし、満州国の詳細を知った川島浪速は失望し、このように述べています。 

 (浪速は)『??遂に共和国なる名文の下に満州国の出現を見たり』 として王道政治とは程遠い満州国に不満を述べ、『我出先軍部が満州国に対して実行せる如き極端なる壟断的干渉を緩和し???彼ら国家の体面を毀損し、個人の面子を蹂躙し、誤解と悪寒を惹起』 せしめるような行為を廃止せよと説いている。(男装の麗人 川島芳子伝) 

さらに上坂冬子は同書でこう述べています。 

養女川島芳子は軍部の指示に従って復辟のために身をすり減らし、養父はこれは復辟にあらずとして切歯扼腕していたが、いずれにせよ父も娘も、もはや時代の主流からは外れていた。申すまでもなく関東軍が堰を切ったように活動を開始していたのである。 

復辟(ふくへき)とは王朝を再興し、皇帝が再び即位することを意味します。 

このころ芳子はスパイとはいえ、なぜかかなりの知名度がありましたが、彼女の人気を決定的なものにしたのが映画 『満蒙建国の黎明』 (入江たか子主演)であり、作家の村松梢風が芳子をモデルに書いて当時ベストセラーになった小説 『男装の麗人』 です。この小説は水谷八重子が扮し、舞台劇にもなりました。 

それは関東軍には予想外の出来事でした。
関東軍が必要としたのは、愛親覚羅家の王女が関東軍に協力している事実だけだったのです。なぜならそれは、関東軍にとって満州国の建国を正当化するプロパガンダとしての最高の材料になるからです。 

芳子の知名度が高まるのと同時に、逆に田中との関係も冷えてきたようで、二人は口論することもしばしばあるし、芳子は田中に軍の機密を漏洩する、と脅かすような言動さえとるようになりました。
振り回された田中は芳子と別れることを決め、板垣征四郎に頼んで彼女を満州国宮廷の女官長にしますが、芳子はこれを嫌って1カ月で上海に舞い戻り、頭を抱えた田中は次に芳子を奉天にいた多田駿大佐の配下にしてしまいます。しかしそれでも田中は彼女に、君のことが忘れられない、などと手紙を送ったりするのです。まあ、しょうがねえヤツですね(笑) 

1933年、芳子は軍服に身をかため、安国軍総司令官という肩書で熱河作戦に従軍しました。
熱河作戦は、満州国を建国した関東軍がその領土を熱河省(1956年河北省に編入)まで拡張しようとした作戦で、関東軍の計画は成功したものの、日本は国際的にさらに孤立することになるのです。 

関東軍のPRも効を奏し、日本の新聞は軍服を着て馬を疾駆させる彼女の写真を競って掲載し、 『東洋のジャンヌダルク』 ともてはやしました。しかし総司令官といっても芳子に作戦能力や兵士への統率力、指揮能力などあろうはずもなく、名目上の司令官に過ぎなかったのはいうまでもありません。 

このあたりが関東軍内における芳子の最後の輝きだったでしょう。これらの新聞記事をはじめとするマスコミの過熱ぶりを芳子自身は、 『ボクが働いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われているので、全く面はゆい次第だ』 と話しましたが、面映いどころか、これらのマスコミの過熱が後に芳子の墓穴を掘ることになるのです。 

芳子が自分のことをボクといったのは、 『女を清算し、男として生きる』 ことを決意したからです。 

やがて関東軍にとって芳子はもてあまし者になってきました。芳子はあまりにも有名になり、人気が一人歩きしすぎたのです。そこまでは田中をはじめ、関東軍のシナリオにはないことでした。
誰にでも多かれ少なかれ、そういう傾向はあると思いますが、芳子という人は順風を得て波に乗れば実力以上の仕事をするが、一旦逆風が吹くとどうすることもできなくなるところがあったのでしょう。 

孤立感を深めた芳子は田中以外にも、あの男(関東軍軍人)はこの女とできているとか、具体名をあげて誹謗するとか、あることないことをいって回ったようで、このため一時的ではありますが、関東軍から暗殺の指示も出たほどです。 

この指示を出したのは芳子の上官多田駿で、命ぜられたのは部下の山家亨でした。山家は芳子が松本にいたころ、松本連隊にいた人で、当時芳子は山家に恋心を抱いていたのです。その山家にこんな命令が下るのも皮肉なことです。
しかし命令を受けたものの山家は芳子を殺すには忍びなく、多田を説得し国外退去というカタチで芳子を日本に帰国させました。 

芳子が帰国したのはいつのことなのか。
1936年と書いたモノもありますが、溥儀が来日した1935年には確実に日本にいたので、それ以前であることは確かです。熱河作戦が終了したのは1933年3月ですし、次に書くとおり同年10月にはコロンビアに歌を録音しているので、この間のことではないかと思います。 


日本に帰された芳子ですが、このころの彼女は、まだまだしたたかでした。
芳子は生活のためもあって通称、伊東阪ニ(いとうはんに)という相場師をスポンサーにするのです。 

伊東阪ニは鈴鹿の生まれで本名を松尾正直といい、伊勢の伊、東京の東から 『伊東』 。東京と大阪の二大都市で相場をはるところから 『ハンニ』 を名乗っていました。34歳の若さで、株相場で当時の300万円、現在の金に換算すると30億円を儲けるような怪物で、国民新聞を買い取り、大宅壮一、市川房江、川端康成、北原白秋、室生犀星、宇野千代等と交流がありました。 

これは芳子にとって 『順風』 だったのでしょう。伊東と同棲しながら、芳子は自伝を執筆し婦人公論から出版。10月になるとコロンビアに 『蒙古の歌(川島芳子作詞、杉山長谷雄作曲)』 を録音。同年12月には東海林太郎に 『キャラバンの鈴』 という歌も作詞しています。翌1937年3月には松本高等女学校の同窓会に招かれて講演を行い、その晩には松本市の公会堂で演説するなど、王家の姫君とは思えないほどの逞しさを発揮していました。 

芳子がいつ伊東阪ニと別れたのかはわかりません。
間もなく伊東は詐欺罪で逮捕され、1948年にも同じく詐欺罪で逮捕されていますがその後の消息は不明です。 

芳子の凋落は急速にやってきました。急上昇した人気は、急下降するのも早いものです。
この時点で満州国の摂政だった溥儀は皇帝になっています。世界中から認知されていないとはいえ、形式上は一応国家のカタチはできあがりました。同時にそれは関東軍にとって、プロパガンダの材料としての芳子は、もはや完全に不要になったことを意味します。 

満州国は後清、つまり清王朝の再興ではなく、まったく別の国であり、溥儀も皇帝とは名ばかりの存在でした。
内部事情を良く知っている芳子はもちろんのこと、誰の目から見ても満州国は日本の植民地であり、謳い文句だった五族協和、王道楽土は芳子には空しく響くだけでした。一体何のために自分はあんなこと(スパイ)をしたのか???。 

芳子は1937年になると再び中国へ渡り、天津で中華料理店、東興楼を開業しています。この人が料理屋の女将になるのはちょっと想像がつかないですが、彼女の周囲の人???彼女は決して一人ではなく、小間使いも雑用係もいたのです???の生活の面倒をみるためといわれています。 

この店で芳子は、父親に連れられて来た李香蘭こと、山口淑子と知り合いました。
山口はまだデビュー前の女学生でした。
芳子は山口淑子を、名前の発音が同じところから興味を持ち、その後も時々はこの店に呼んで、2人でおしゃべりしたようです。もっとも、このころの芳子は自暴自棄的のすさんだ生活をしていて日本人にも中国人にも評判が悪く、山口淑子は店に出入りしていることを養父の潘淑華に知られ、大目玉をくらっています。 

東興楼の女将になってからも芳子はしばしば天津、九州の間を行き来していましたが、山口淑子はそのあたりの事情を山家本人から聞いたようです。山家は淑子を満映に紹介した人で、淑子とは親しい間柄でした。 

「芳子は、日本軍の中国大陸における行動を批判した文書を東条英機、松岡洋右、頭山満ら日本の政界、軍部の大物たちに配り、蒋介石との和平工作を呼びかけているが、その中で多田中将のことを口をきわめて非難している。 

中将が芳子を相手にしなくなり、いまやうとんじていることへの私怨もあるが、あの文書には彼女なりの日本軍に対する失望の気持ちもこもっている。いずれにしても中将は、このまま芳子を放置するとますます厄介なことになるので、”処分”することを決断した。そしてその命令がボクのところにきた。」 



「彼女は軍をかきまわしすぎたよ。だが、消せと言われても、処刑するにはしのびない。昔から知っている女だし、かりそめにも清朝粛親王の王女、満州皇帝の親族だ。そこでボクが責任を負うかたちで、一時国外退去処分にして日本に送り込んだのだ。いま九州の雲仙で静養しているはずだ。」(季香蘭 私の半生) 


早くに夫人を亡くした山家は満映の中国人女優と浮名を流していましたが、はじめのころ芳子は、彼の相手は淑子と勘違いし、李香蘭はボクの初恋の人を奪った、などとふれ回ったこともあったのです。些細なことですが、その意味で淑子も芳子の被害者の一人ではありました。 

そんなある日、山口淑子が日本での撮影を終えて中国へ帰るため、博多のホテルに宿泊していることを知った芳子は、淑子に会いに行ってこんな会話をしています。「 」は芳子の話、( )は淑子の心中の思いです。この会話から、芳子の性格の一端を窺い知ることができるような気がします。 

「川島の母が少し頭がおかしいので雲仙で静養している。ボクはその看病にきているんだ」 (国外退去命令を受け、雲仙に逼塞している事情を私が知っているとは知らずに、そんな作り話で取りつくろう) 

「キミもすっかり人気スターになったなあ。映画川島芳子伝を撮る計画があってね。キミに主人公のボクを演じてもらいたいんだが」 (そんな計画は初耳だった) 

「ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」 (私は多忙を理由に断った)  (季香蘭 私の半生) 


潘淑華に怒られて以来、淑子は芳子を避けていたようで、こんなところで会うのは迷惑なことでした。
しかし、その夜。寝ていた山口淑子は誰かが部屋に入ってきたことに気づき目が覚めて、枕もとを見ると芳子からの手紙が置いてあったのです。 

ヨコちゃん、久しぶりにあえて嬉しかったよ。キミと会うのもこれが最後かもしれん。
振り返ってみるとボクの人生は何だったのだろう。人間は世間でもてはやされているうちがハナだぞ。利用しようとする奴がやたらとむらがってくる。そんな連中に引きずられてはいかん。キミ自身が本当にやりたいことをやりなさい。 

人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。ボクをよく見ろよ。現在のボクは茫漠とした広野に日が沈むのを見詰めている心境だ。ボクは孤独だよ。ひとりでどこへ歩いていけばいいんだい。(李香蘭 私の半生) 


芳子は普段からキザで、人前ではやたら恰好をつけたがるところや、わざとらしいウソでその場を取りつくろう癖があったようで、国外退去処分になったことや、今の自分のどうしようもない状況など、手紙でなくては言えなかったのでしょう。 

芳子にとって山口淑子はなぜか気にかかる存在だったようで、こんなに自分の胸のうちを正直に告白したのは珍しいことだったでしょう。これを読んだ山口淑子は、こんなに人間くさい川島さんを見たのははじめてだった、と述べています。 



■漢奸として 

1945年8月15日。
芳子にとって全てが暗転します。
満州国は消滅し、関東軍は崩壊し、その年の10月。彼女は漢奸として北京で国民党政府軍に捕らえられたのです。漢奸とは漢民族(つまり中国人)でありながら祖国を裏切って利敵行為をした人を指します。 

次の8点が彼女の罪状でした。中には1.のように罪状とは思えないようなものもありますし、事実無根のものもあったでしょうが、有罪になれば間違いなく死刑です。 

1. 被告は粛親王の娘で、長年日本に滞在し、川島芳子の日本名を持つ 
2. 9?18事変(満州事変のこと)以来北京、天津、日本、満州の間を往来し、スパイ活動をした 
3. 偽満州皇宮の女官長、偽満州の留日学生総裁などをつとめ、溥儀の訪日にあたってはその歓迎の指導を担当した 
4. 偽満州で陳国瑞部隊を編成して偽安国軍を組織し。溥儀を熱河省に迎えて国境地帯を侵そうとした 
5. 7?7事変(日中戦争のこと)勃発後、汪精衛を扇動して南京政府の樹立につとめ、祖国に反逆、戦禍を拡大した 
6. 日本活字や放送媒体を利用して国民政府軍の内情を敵に披露した 
7. 満州族の復興と中国統一をたくらみ、溥儀に北京に遷都するようそそのかした 
8. 日本人村松梢風の『男装の麗人』には、被告の行動が具体的に証明されている 



無罪になるために、芳子が思いついたことは決して間違っていません。
愛親覚羅の一族とはいえ今は日本人だ。それが証明されれば釈放されるに違いない。そう考えた芳子は日本の川島浪速に手紙を書きます。戸籍謄本を送れ、と。 

しかし芳子の元に届いた川島の返事は、彼女の希望を無残に打ち砕きます。
戸籍謄本には芳子の名前は記入されてなく、浪速の返事には、芳子が日本国籍を有するのは間違いないが、戸籍は関東大震災で焼滅してしまったので今は取得できない、と書いてあったのです。申しわけ程度に松本市長の、川島浪速の話に相違ない、という一筆も同封されていました。 

しかし、実際の謄本でないものが何の役に立つでしょう。
川島浪速は芳子を日本に帰化させていなかったのです。 

芳子は松本高等女学校には聴講生として入りました。詳しいことは私にはわかりませんが、松本高等女学校に限らず、当時の学校はおそらく日本国籍がないかぎり正式な入学はできなかったのではないでしょうか。 

日本国籍を取得していなかったのは川島浪速の意思だったのでしょうか。
少なくとも戸籍謄本を送れと手紙を書いたということは、芳子は自分は日本人で、戸籍謄本にはそれが明記されていると信じていたからに違いありません。 

芳子はあせります。
戸籍には、芳子の実兄の子(芳子には姪)が同じ川島の養女として明記されていました。この子は実父粛親王の長男の子で、廉子(れんこ)といいます。もちろん芳子の後に養女になった人です。 

芳子は再び川島宛に手紙を書きます。
廉子の廉の字を芳に変えてほしい????戸籍謄本の偽造要求でした。しかし芳子はその戸籍謄本も、川島浪速からの返事も受取ることはありませんでした。 

1947年10月22日、わずか3回の審議で芳子は死刑判決を受けたました。




判決理由は次のとおりです。 

1. 被告の血統は中国で、日本国籍を自称しているが、粛親王の子である以上当然中国人である。日本国籍取得については養父川島浪速が代行したものであり、証拠不十分である 
2. 被告は日本の軍政界の要人と親交があり、12?8事変(太平洋戦争のこと)勃発の頃、上海でダンサーを装って軍事機密を探った 
3. 9?18事変(満州事変のこと)の後は関東軍に参加し、安国軍を組織して多田駿の率いる満州国軍設立に協力し、満州国の健全なることを主張した 
4. 『男装の麗人』 は彼女をモデルにした小説であり、『満蒙建国の黎明』 はそれを原作とする映画である。
作品の前者には被告の上海における活躍ぶりが書かれており、後者には満州国建国前の功績が描かれている 
5. 7.7事変後被告は溥儀を北京に移居させ、満清帝国の回復を命じた。また日本に南北の傀儡が組織する政府及び人事の配備を提案した 
6. 各方面での調査で被告は国際間で暗躍した人物であることが判明した 

4.については男装の麗人は満蒙建国の黎明の上映後に出版されているので、この映画の原作ではありえないのです。 

早すぎる判決について、芳子の兄の憲立は 『裁判で芳子は決定的に自身に不利な発言をした』 といっています。 

憲立によれば芳子の裁判はラジオでも中継されたという。当時憲立は身を隠しながら、もちろんラジオに耳を傾けた。ところが公判の途中で芳子が孫文の長男、孫科の一件を口にしたというのだ。 

途端に中継は打切りとなり、放送は不自然なかたちで終わった。憲立は孫科の名が出た瞬間にスイッチが切られたから、芳子の証言内容は一切不明だというが、たとえば田中隆吉が後に著作集のなかで発表したところによれば、芳子は上海事変後に蒋介石から糾弾された孫科を、日本の欧州航路客船にしのびこませて広東に逃がしたりしている。 

もし芳子が法廷でこの件に言及したとすれば、当時蒋介石政権首脳部にあった孫科は、立場を失うことになる。孫科としては当然口封じのために芳子の処刑を促したはずだ、と憲立は言外に伝えているのだった。(男装の麗人 川島芳子伝) 

孫科が蒋介石から糾弾されたのは、芳子が孫科から蒋介石の動きを聞き出し、これを関東軍に流したからです。 


しかし、たとえ日本国籍を取得していても、芳子の死刑は変わらなかった???日本経済新聞のシリーズものである 『私の履歴書』 に連載された山口淑子のエッセイによれば、山口は同誌に寄稿するにあたって、川島芳子の判決文の全文をはじめて読んだそうです。 

昔から、川島芳子は日本国籍がなかったため死刑になったという説が一般的でしたが、その判決文によれば、中国の国籍法ではたとえどの国の国籍を取得しようと、父親が中国籍である以上、本人は中国人とみなされる、ということなのです。(ということは、日本人でこの判決文全体を読んだのは山口淑子が最初で、それもごく最近のことだった、ということになります) 

法律がそうである以上、芳子はどうあがいても死刑になる運命だったのです。
この後芳子の上告は却下され、1948年3月25日。芳子は北京で銃殺刑に処せられました。
芳子は貴婦人のように、まゆ一つ動かさず死んでいったといわれています。それは王女としての最後の誇りだったのかも知れません。 

誇りといえば、上海事変における芳子の活動はすべて田中隆吉の指示によるものだったので、芳子は黒幕は田中であり自分は実行犯にすぎないと供述することもできたのです。しかし芳子は田中はもちろんのこと、自分の周囲の人達に不利になるような発言は一切しませんでした。巧みに立ち回り、連合国側の起訴を逃れた田中とは大変な違いです。 

死刑執行後、芳子の服からこんなメモが出てきました。 

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん 

なんと悲しい内容でしょう。
芳子の遺体は後難を恐れてか誰も引き取らず、1週間後に静岡県清見寺の僧侶古川大航によって荼毘に付され、9月古川は遺骨を持って帰国しすぐに川島浪速のもとを訪れています。その浪速も芳子の後を追うように翌年6月に死去。今、芳子は長野県松本市の正麟寺の墓で養父母と並んで眠っています。 

死刑執行時、マスコミは立入禁止で、死体写真も頭を撃たれたため顔がわからず、芳子は本当は生きている、という噂も飛び交いました。 

古川大航はどんな人なのか、どういう関係で名乗り出たのか、わかりません。芳子も浪速も古川大航とは面識がないのです。 




■最後に 

芳子は高貴な血筋からくる誇り、頭の良さ、奔放な性格を持っていましたが、同時に軽率で寂しがり屋で人のおだてに乗りやすく、身勝手なところもありました。わずか7歳で親元を離れ、異国で暮らすようになった芳子はさぞ寂しかったことと思います。松本高等女学校で彼女は馬で通ったりして目立とうとしたのは、その寂しさの表れだったのではないでしょうか。 

先ほど芳子の遺体から見つかったこのメモ。 

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん 

これは芳子の死に臨む心境を書いたものではなく、松本高女時代に書いて口ずさんでいたものだそうです。
でも、上の2行は彼女の孤独さを表したものといえますが、下の2行は一体何なのでしょう? 

法あれども正しきを得ず、冤あれども誰にか訴えん???女学生だった芳子にこんなことを書かせたものは、一体何なのか。
私はふと、養父浪速に肉体関係をせまられたという話を思い浮かべましたが???。 

また虚言癖もあって他人には誤解されやすく、日中両国から二重スパイの疑いをかけられたことすらあったのです。上坂冬子氏はその著、男装の麗人 川島芳子伝で 

のちに漢奸として処刑された彼女の罪状の主要部分は上海事変のころの 『活躍』 ぶりにあった。 

???中略??? 

だが具体的にいうと当初彼女は日本の特務機関の命により中国人労働者に日本人の殺害を依頼したのである。日本人の命により日本人を殺すことにさほど逡巡することはなかったかもしれぬし、その限りにおいては反逆罪には該当しない。
だが次に、その報復と見せかけて今度は逆に日本人に中国人を殺害させるべく暗躍し、ひいては戦争への導火線の一端をになう結果となった。大局をわきまえず踊らされ、のっぴきならぬ立場に追い込まれた彼女のおろかさはいうまでもない。 

と批判するのと同時に、弁護も忘れません。 

しかしさらに一歩踏み込んで糾弾するならば、真に罪悪として咎められるべきはこうした遠大な陰謀に女性を組み込んだ側にこそあろう。 


先に書いたとおり、芳子は松本高等女学校の同窓会に招かれて講演をおこないましたが、その夜チャイナドレスを着た芳子は、松本市の公会堂で演説を行いました(1937年3月23日)
会場は文字通り立錐の余地がなく、入りきれない人が玄関から溢れるほどだったとか。
松本市長の挨拶の後、松本第50歩兵連隊長の田畑八十吉少将が芳子を紹介したようです。演説の内容は3月25日付の信濃新聞に掲載されました。この新聞は入手できないので、記事の概要を 『男装の麗人川島芳子伝』 から引用します。 


新聞記事を一読する限り演説内容は日本人への痛烈な批判がこめられている。
たとえば冒頭に 『今夜お出かけの皆様は多分に私への興味にひかされておいでのようですが』 と前置きして、 『この好意の万分の一を支那にいる日本人が我等の同朋に示してくだすったならば我々はどんなに感謝するだろうか』 と話を切り出しているのだ。 

そして現在、支那や満州にいる日本人は内地にいては相手にされぬあぶれ者が多く、濡れ手に粟の欲得ずくで大陸に渡って支那人をして恐れしめ嫌忌せしめているのですと話は展開してゆく。さらに日支親善は外交官や軍人や特権階級流のやり方ではなく、民衆レベルの握手でなければならぬとし、 

『戦争のあるたびに私は身を挺してこれが鎮撫に狂奔しました。 

討つ人も討たるる人も心せよ
討つも討たるも同じ同胞 

この切なる気持ちがあればこそ、私は戦うための司令官(熱河作戦の司令官のこと)に非ずして、戦はざらしめんが為の軍司令として微力を傾倒し続けたのでした』 とのべている。 

そして最後に、現在の日本の対支外交は肺病患者に胃の薬を投与するような方向ちがいがあることを指摘し、『日本の兵隊は護国の英雄として護国神社にまつられています。しかし私の部下は只あの広野の草に埋もれて誰も見向いてくれませぬ』 と訴えて満州護国の英霊に護国神社を建てて慰霊を、と結んだ。 

(新聞の)見出しは「男装の麗人?悲願の叫び、親善の二字棄てよ ”肺病に胃薬の対支策” 」となっている。これはさきの「婦人公論」の手記と同じく傀儡満州国を打ち出した日本に対する皮肉であり、かつ侵略された同胞に代わっての抗議に受け取れる。 

たしかに彼女の言動に一貫性はない。しかし繰り返しのべるなら、その心底に民衆や農民の側に立つ一点があったことだけは見逃すべきではなかろう。少なくとも彼女が民衆を裏切ったと断定するのは早計である。 

新聞記事の引用(『???』)と、上坂冬子氏のコメントが交差していてわかりにくいですが、ご容赦を。 

芳子の死後彼女の親族は日本にあっては戦犯の、中国にあっては漢奸として、また文化大革命の後でも親日派の一族としての肩身の狭さから、芳子をかばうような言動をする人はほとんどいませんでした。しかしそれとは対照的に、芳子と交流のあった人には積極的に彼女をかばう人がいます。 

川島浪速の夫人の縁者にあたる部落解放研究所理事長だった原田伴彦は芳子の死を悼み、新聞に次のような追悼文を寄稿しています。追悼文ですから多少割引いて解釈する必要があるかもしれません。 

彼女の武器は、絶世の美貌と愛親覚羅王朝の貴種の血と金力と溢るるばかりの才気と頭脳であった。しかし彼女の悲劇の原因もそこから発した。彼女の生活には理想もなければイデオロギーもなければ、近代的性格は殆ど存在しなかった。 



私は世上流布するところの『東洋のマタ?ハリ』川島芳子伝のいくつかが、全く同一の一、二の昔の猟奇的種本から発したものであること、そしてそれが益々ジャーナリズムの輪をかけた神話製造によって屋上屋を架したものになったことを信じたいような気がする。(男装の麗人 川島芳子伝) 


川島浪速の秘書だった庄司久子は 

芳子さんのことは今までもいろいろの本に出ておりますが、香ばしくない噂が多いようです。私が御一緒に生活させて頂いて感じた芳子さんは、皆さんが噂するように人を利用してかかる策士ではありません。むしろ私には清朝粛親王の遺児を、日本の軍人や民間人のお偉い方が色と欲とで利用されたという印象が強く残っております。 

芳子さんはとびぬけて頭の回転が速く、縫い物、茶、花、お料理、乗馬、射撃など見事にこなされる半面、すぐばれる嘘をつくのが得意な方でした。そのため誤解を招いたと思うのですが、本当は淋しくてたまらなかった方のようにお見受けしました。(同上) 


晩年の芳子の秘書だった小方八郎はこうのべています。 

芳子さんを理想の女性として祭りあげろとは申しません。しかし切れば赤い血の出る人間が、カラ元気でもつけなければ押しつぶされそうな権謀術数や冷酷な人間関係の中にあって、寂寥感をことさら押かくしながら陽気に人目をひいていたという点だけは理解してほしいと思います。
たしかに標準からはズレたお人柄といわれましょうが、底に流れる人恋しさ、ぎりぎりの人間性に注目してあげてほしいという気がするのです。(男装の麗人 川島芳子伝) 


芳子の周囲の環境は 『カラ元気でもつけなければ押しつぶされそうな権謀術数や冷酷な人間関係』 でした。さらに 『本当は淋しくてたまらなかった』、『寂寥感をことさら押かくしながら陽気に人目をひいていた』 ところに芳子の本質があるような気がします。 

芳子は男装の麗人とも、東洋のジャンヌ?ダルクともマタ?ハリとも呼ばれました。マタ?ハリも芳子も同じ銃殺刑で処刑され、享年も同じ41歳です。マタ?ハリ(本名マルガリータ?ゼレ)が大変な美貌でセクシーだったのに対し、芳子は知的な美しさは持っていたかもしれませんが、肉体的美しさは持ち合わせてはいなかったと思われます。 

しかし彼女の時には自由奔放に、時には気まぐれに、時には甘えるような仕草は、周囲の男達にはたまらない魅力だったのでしょう。後にこの部分が拡大され、一部の俗書?映画等で取り上げられたがために、前記した庄司久子はいてもたってもいられず、あのような談話を発表したのです。 

田中隆吉だけではなく、当時の関東軍には将軍といわず、将校といわず、芳子のとりこになった男が多かったようですが、兄の憲立は、関東軍の将軍?将校の中で芳子に対して一貫して紳士的だったのは、板垣征四郎と石原莞爾くらいのものだった、と述べています。ちなみに甘粕正彦は、芳子を徹底的に嫌っていたといわれています。 

ただ、芳子は言い寄る男とは誰でも寝たわけではなく、興味のない男やダメ男はまったく眼中になく、後に右翼の大物になった笹川良一は彼女を 『怖い感じの女』 といっています。 

芳子の悲劇は、一つには彼女自身の軽薄さにあったことには間違いありません。しかし芳子は、彼女が幼少のころより養父達から聞かされた清朝再興が、時代の流れから大きくずれていることに気がつかず、本気で行おうと思っていたところを関東軍に利用され、それがわかった時には、もはや彼女自身どうにもならない状態になっていたことにあると思うのです。 

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