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2014年5月11日星期日

近代満洲の民族相


小林英夫著「〈満洲〉の歴史」(講談社現代新書 2008)より:

大いなる錯覚

関東軍作戦参謀だった石原莞爾(いしはらかんじ)は、満洲事変勃発(ぼっぱつ)4日後の1931年9月22日の作戦会議で、これまでの「満洲」直接占領構想を放棄し、清朝皇帝だった薄儀(ふぎ)を頭首とする国家づくりへと考え方を変えた。それまでは石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。

石原はここで満洲イメージの修正を強いられたわけだが、はたして多くの日本人はそうしたイメージ変更をできたのだろうか。…実は、こうした多くの日本人が共有していた大いなる錯覚が、1931年以降の日満のみならず日中関係を誤らせる結果を導いたのではないだろうか。…

17世紀ならいざ知らず、日本が本格的に係わり合いをもつ19世紀半ば以降のこの地は、漢族1000万以上の農民が住み、毎年40万から50万人の農民が津波のように押し寄せ、そして何もかも飲み込んだ大地を噛み砕く、漢族の自治の土地だったというべきだろうし、その中から生み出された張作霖(ちょうさくりん)に代表される政治指導者たちは高い政治統治能力を持っていた。それを「軍閥」という名称のもと、古いイメージでこの地と向き合った、この大いなる錯覚が、東北をめぐる日中関係の不幸の始まりだったのではないか。

黄龍から旭日へ

…たしかに、13世紀からの中国東北の.歴史をひもとけば、それは、清朝発祥の地として、何人も立ち入ることができない封禁(ふうきん)の地として、長い間、広大な荒野を野生の天国に存置していた。しかしこの地は漢族の移民の開始とともに、瞬く間に農業地帯へと変貌を遂げていった。そして露・中・日、三つ巴の抗争の歴史を経て日本がこの地に勢力の扶植を図りはじめたのは、漢族の開墾が大いに進んだ後の19世紀末から20世紀初頭のことだった。

日本は、日清・日露戦争を契機にこの地に進出し、1945年までこの地域に大きな足跡を記すこととなるのだが、その日本は、最大時でも約150万人という、漢族から比べれば20分の1にも足りぬ、しかも大地から遊離した移植の民をもって、ある「夢」を実現させんとしたのである。その「夢」とは、この地を清朝の黄龍旗(こうりゅうき)はためく地から旭日旗(きょくじつき)満ちる地に変えることであった。それはさまざまな手法をもって行われた。清朝皇帝と皇室との交流に始まり、工業化政策と移民政策がそれに加重された。しかしこの変更はあまりに困難で、厳しい環境の中で旭日旗自体が強風にむなしくもちぎれていった。…

17世紀に始まる漢人の満洲移民

当初、満洲はヌルハチに起源をもつ清朝発祥の地として、満洲旗人の地を保存する考えから、何人も立ち入ることができない封禁の地であった。ところが清朝が北京を都に定め全中国の統治をしはじめると、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満洲の空洞化現象が生じはじめた。これを防ぐために清朝は1644年に「土地分給案及開墾補助策」を、49年には「移住民の保甲編入、荒地開墾所有許可令」、53年には「遼東招民開墾例」などの一連の遼東招民開墾政策を実施し、漢人の東北移民を促進した。漢人の東北移民は急速に進行し、開墾奨励政策は1668年に停止されたものの、漢人の移民の勢いは止まらず、その後も自主的な移民が進められ1900年頃には東北の漢人の人口は推定1700万人近くに達したのである。

移民の増加とともに清は、各地に総督-巡撫-布政使司(ふせいしし)、按察使(あんさつし)のラインで地方統治を整備し、それ以下の行政レベルでは地方自治を許してきた。しかし満洲はその発祥地ゆえに事実上の軍政が布(し)かれ将軍、副都統がおかれて統治されてきた。

移住者の増加にともない、徴税という面では税損局を設けて課税を実施しはじめた。…多くの場合には徴税額ではとうていこの地域の歳出はまかないきれず、毎年中央からの補助金で財政の赤字を補填したといわれている。


漢人開拓地の自治の実像

…漢人による満洲開拓が進行するなかで、この地域の牧草地や山林、森林は次第に耕されて耕地へと変貌していった。開拓を担ったのは山東省や河北省からの漢人移住者だった。彼らは、陸や海路を利用して満洲へと入り、まず奉天省の未開地を開拓し、さらに進んで吉林省へと踏み入り、そしてロシアと国境を接することとなる黒龍江省へと開拓の歩を進めた。…また吉林省の開拓に当たっては、18世紀中葉から生活に困窮した在京旗人救済の目的で彼らの移民策が展開されたが、農耕生活に不慣れな彼らは定着することはできなかったという。ロシアと国境を接した黒龍江省の開拓は、17世紀末に屯田のかたちで移民が進められたが、それが本格化したのは19世紀も後半で、主に漢人の私墾というかたちで展開された。こうして、東北では旗地の売買が活発化するなかで、清朝を支えていた旗人は土地を喪失して没落していった。それは同時に清朝の衰退過程に符合した。

1860年、天津(てんしん)条約に基づいて牛荘(きゅうそう、営口(えいこう))が開港されることで、満洲は世界経済の一環に包摂されることとなった。営口で取引をされたのは満洲特産の大豆三品(大豆、大豆油、大豆粕)で、この輸出入を通じて営口は賑わい、過炉銀(かろぎん)が流通することとなる。満洲特産大豆が世界製品になる過程は、同時にまた営口が栄え、漢人の満洲開拓が急速に促進される過程でもあった。

拡大した漢人の開拓地を清朝は総督を派遣して統治したことは前述したが、それは中央機関だけで、漢人の開拓村は自治に任されていた。自治とはいえ、中央機関とは何らかの関連を持つわけだが、それに対して彼らは、長年の政治経験を活用して柔軟に対応した。…

この満洲の地は清朝の統治の対象ではあったが、その治安を維持するための軍事力の多くを担ったのは、馬賊と称された、村落の自衛武装集団だった。日本では誤解されて馬賊というと馬に乗った略奪者、強盗もしくは盗賊集団として扱われるが、これは正しい認識ではない。治安が不良で自衛が必要とされる中国で、略奪のかたわら地域的自衛をも担当する武装集団が活動したが、彼らの多くは頭目が騎馬で指揮したことから馬賊と称されたのである。

もっとも満洲社会の防衛組織を馬賊で代表させることは、必ずしも適切ではない。馬賊というのは、そうした村落自衛組織の一つであって、時期や場所によって異なるが、民団、郷団、商団、保衛団、自衛団などさまざまな組織が活動していた。自衛団を例にとれば、これは常時ある場合もあるが、通常は村落にあって農作業に従事しているが、非常の際に銃器を携え村落防衛に従事する場合が多い。団長や副団長は村落の地主や富農の二男坊が就任し、兵は村民が志願もしくは義務的に従事する。彼らは自分たちの村を守るという意識が強いから、農家に宿泊しても馬賊などの雇われ者がやるような食い荒らしはせず、夜間の警備などを任せれば一番忠実で安全であるというのだ。…

混乱に生きる満洲住民

日露戦争中および戦後の満洲は、日清戦争時とは比較にならぬ範囲と規模で戦争の影響を受けた。まず、戦時好景気が満洲を覆ったことである。もっとも満洲全土というよりは、兵站地域でそれが著しかった。たとえばロシア軍の拠点ハルビン、大連と南の日本軍の拠点営口がそれである。戦争勃発直前のハルビンには850名程度の日本人がいた。彼らは娘子軍(じょうしぐん、売春婦)が圧倒的に多数で、以下、洗濯屋、理髪屋、時計士、写真師、大工、ペンキ屋等だった。彼らは日露開戦と同時にハルビンを引揚げた。…

そしていったん戦端が開かれると、ハルビンにはあらゆる物資が充満、ショーウインドウにはダイヤモンドやたくさんの酒が、そして濃艶なロシア女が街に溢れ、この都市は「極楽世界の観」を呈したという。日本軍の拠点、営口も同様で、軍需品の荷揚げで活況を呈し、満洲で一稼ぎしょうとする日本人が殺到し、日清戦争時にはわずか数十人に過ぎなかった居留民は8000人に膨らみ、旅行客を含むと 1万人を超えたという。…

もっともこれは戦場が生むことの一面であって、他面で、多くの中国人は戦火の犠牲となって多大な被害を受けたことはいうまでもない。クリスティーは、その著書の中で短く「それは支那の土地で戦はれた。支那の農民は、自分達の戦争ではなかったけれども、そのために苦しみ且つ死んだ。そして何等賠償を受けるあてもなかった」(『奉天三十年』下)と結んでいる…

戦争が終わると、今度は戦後の荒廃と混乱、景気の後退が満洲に打撃を与えた。ハルビンではあらゆる物資が暴落し、買い手のない悲惨な状況が生まれた。営口も被害を受けた港の一つだった。戦争勃発当初は、軍需品の輸送で活況を呈したが、戦争が終結すると軍需品の値下がりと滞貨の山のなかで、倒産する商人が続出、さらには大連港が復興し、満鉄の呑吐港(どんとこう)として機能しはじめると営口の重要性は減少していった。…


日本人移住者の増加

満洲も満鉄もまだ日露戦争直後の荒々しさの余韻を残している1907、08年ころ、他方で日本人の満洲移住が始まっていく。すでに中国人移民の数は1300万人を超えていた。日本人移民の数も徐々にではあるが増加を開始する。

ここに1906年8月時点の営口の日本人戸数調査がある。それによれば、営口の戸数合計は1044戸、人員は7087人、その内訳は男子5111人、女子1976人であった。職業の内訳の上位5種を挙げれば、下婢(かひ、使用人) 394、雑貨店 226、芸妓 113、料理店 75、菓子製造 68の順になっていた。…

占領初期と相も変わらず芸妓、酌婦、下婢、料理店、飲食店関連従事者の数が多いことがわかる。料理店、飲食店とは大半が淫売宿であり、芸妓、酌婦、下婢はその大半が淫売婦だったという。…

「五族協和」の内実
…満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族が住み分けていた、というのが実情に近かった。


人口構成

『満洲年鑑(昭和15年版)』に依拠して、満洲國の1937年12月末時点での民族別職業別人口構成を見てみよう。満洲国の総入口は約3667万人。うち最大多数の漢族が2973万人で全体の81%を占めている。第二位は満族でその数は425万人。全体の約12%を占める。第三位は蒙古族で、その数98万人、全体の3%弱。そして第四位は朝鮮族の93万人でこれまた3%弱。そして第五位が日本人で42万人、1%強である。

次に職業別人口構成を見てみよう。やはり農林牧業に従事する人口が圧倒的多数で、2304万人、63%弱で半数以上が農林牧業に従事しており、なかでも漢族が1841万人で、全体の50%、半分を占めている。この対極にいるのが日本人で、公務員・自由業が8.3万人で、全入口に占める比率こそ1.2%だが、満洲国全体の公務員・自由業の5.8%を占めている。

つまりトップに立つ日本人は、公務員及び自由業に従事するものが最大で、逆に最大の人口比率をもつ漢族は農林牧業を筆頭に以下商業、鉱工業と続いている。中国人が、農・商を通じてがっちりと満洲の大地を食んでいることがわかるであろう。…

実質的に農村を支配する中国人農民

中国人農民といった場合にも、4000万人(?)の農民の内訳を見れば、富農や地主から貧農、小作農までそれこそ千差万別で、一律に論ずることはできない。東北農村をコントロールしていたのは巨大な地主と富農で、彼らはしばしば大豆集買を業とする糧桟を兼業し、さらには金貸しをも兼ねていて、村落で絶対的な力を有していた。しかも農会をコントロールし、保甲制度の実施においては、保長か甲長を兼ねて村落で大きな権限をポストとともに保持していたのである。

彼らは、さまざまな情報を集計して、有利な条件で大豆を購入・販売しており、こうした利便性を活用して富を蓄積した。…特に戦時期に入ると統制が一般的となり、正確な情報いかんが収益を左右することとなり、それを有利に活用できる富農や地主がさらなる富をものにすることができた。したがって、彼らが実質的な意味での農村の支配者であり、満洲の大地の支配者だったのである。

商売上手な中国人商工業者

中国人商工業者の多くは、付属地に隣接する城内に住んでいた。満洲事変前は、城内と付属地の日本人街では交易を行う際には関税上の問題があり、自由な取引はできなかった。したがって、張作霖政権は、この関税を調整することで、中国人商人に有利なように商取引を実施することを仕掛けたのである。
満洲国成立後は、治外法権撤廃にともない、それ以前の制度は消滅したが、中国人商工業者の居住地と日本人のそれとは明確に峻別されていた。…

中国人商人の商売上手は、日本人のそれとは比較にならなかった。北満の奥地を旅した島木健作は、中国人商人が上手に日本語を使い、愛想よく島木に接し客を大切に扱う態度が随所に見られたのに対し、日本人商人の店は客扱いが雑で価格も高く、いい気持ちはしなかったと述べている(『満洲紀行』)。

しかし中国人商人のなかには、正常な商取引というよりは麻薬、阿片などの取引に手を染める者も少なくはなかった。時折彼らの暗号めいた符号入り書簡が憲兵隊の検閲に引っかかることがあったが、それは阿片取引の場合が少なくなかった。…

若い世代が台頭しはじめる中国人官吏

中国人官吏の生活は多様であったが、満洲国の官吏養成課程が整備されるにともない、次第にその養成課程から選出された官吏が要職を占めはじめた。建国当初は日本留学組が要職を占めていたが、やがて建国大学や大同学院出身者が、県長から満洲国中央政府の処長、科長、次長へと昇格を開始し、敗戦直前では、中央政府の次長クラスヘと昇格したものが現れはじめた。日本の大学を卒業し、帰国して中央政府入りを果たし、出世街道を進みはじめるものも現れはじめた。
その契機となったのは、1942年の「満洲建国10周年」を迎えた人事異動だった。…

広範に活動する朝鮮人

朝鮮人の活動領域は満洲国全域に及んでいたし、従事していた職業の業種も日本人よりははるかに広かった。彼らは、母国を離れて満洲国に住みながらも、官吏、農業、工業、商業など広範な領域にその触手を広げ、朝鮮人のネットワークを持ちながら、その領域を拡大していった。…

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